2013年01月25日

【書評】 死を詩で飾る 『チェン・スウリー詩集 カフェデリコ・カフェリーニ』書評/梅山いつき(演劇研究者)

   
    
死を詩で飾る
―――『チェン・スウリー詩集 カフェデリコ・カフェリーニ』書評


梅山 いつき (演劇研究者)


 わたしたちは自分の五感を駆使して体験できる世界しか知りようがない。自分が住む世界を「ここ」と呼び、その外側を「むこう」と言って区別するとき、「むこう」には知りえない、理解できない場所という意味合いが含まれる。死後の世界である彼岸もまたわたしたちが知りえない「むこう」の世界である。わたしたちは現世、すわわち「ここ」しか知らず、「むこう」側は知らない。ところが、わたしたちの多くは「むこう」の世界があるのではないかと儚くも願う。そして、その際にわたしたちがはたらかせているのは経験値ではなく、想像力である。

 だから詩を詠むことも「想像」という点において、極楽浄土に想いを馳せることと同じである、と言ったら言い過ぎだろうか。死を詩で飾る。そんなことをチェンさんの処女詩集『カフェデリコ・カフェリーニ』を読みながら思った。本書は、「ぼく」という一人称で語られる三十三編の詩と五日分の日記から成る。詩人の桑原滝弥が「その日の頁を開く自分の気分」にまかせてどこから読んでもかまわないと述べるように、本書には時間の制約から解き放たれた軽やかさがある。ごく日常的な事柄が詠われていることも読者に気軽さを感じさせる一因だろう。だが、わたしはその軽やかさにどこか浮世離れした感も抱いてしまう。たとえば「直進」という詩には次の一節がある。

  ぼくがこんなに迷っている今も
  迷いもなく血は流れる
  細胞は甦生し続ける


 「ぼく」の体内で血は鮮やかに流れ、細胞は活性化する。さながら春の息吹のようでありながら、だからといって「ぼく」の心が暖められることはない。紛れもない自分の身体を「ぼく」は他人のように感じており、自分を取り残して生き続けるそれをどこか恥じている。このようにどの詩においても「ぼく」は日常生活のただ中にありながら離人感に苛まれている。なぜか。日記を読んだ者は、本書がその軽やかさとは裏腹に実は急逝した愛犬モリーに捧げられた一冊であることに気づくだろう。作者は決して消尽しえない過去の一点に立ちつくしているのだ。

 では、「ぼく」の意識はモリーを追って現実を飛び越え、「むこう」側へ行ってしまったのだろうか。雑居ビルに出没する霊について書いた「歌舞伎町の幽霊」をみると、「ぼく」は死後の世界に親しいわけではないことがわかる。「ぼく」は「八郎さん」というおじいさんの幽霊の気配を感じ、おじいさんが話しかけたそうにしていることに気づきながら、それに「人見知り」という態度で応えてしまう。「ここ」にも「むこう」にも戯れられないのが「ぼく」なのだ。「Freeze Floater」にはそうした戸惑いがよりはっきりと表われている。前半部分を引用してみよう。

  ぼくは 湖上に 降り立った
  静かに ゆれる 水の肌

  ぼくは 水面に 浮いている
  ちゃっぷん ちゃっぷん 波が立つ

  ぼくの 前には 何も無い
  すべては 水が 吸い込んだ

  ぼくの 前には すべて在る
  すべては 今ぼくの 前に在る

  水面の吸った 空
  震える 空気
  一切の音、そして色

  ぼくは その中に ぽつんといる
  無力で 非力で 孤独で
  ちっぽけで ちっぽけで ちっぽけな ぼく

  日常の喧騒とは
  かけ離れた 別世界

  いや、別世界だろうか

  ぼくらは 水から 生まれたはずなのに

  すべての 生命の源、水。

  この大きな 水溜りに 浮かび
  不安を感じる ぼくにとって

  やっぱりこの景色は 別世界なのか

  この別世界を ぼくは夢見てたはずなのに
  しかし、ぼくは怯えている

  途方の無さに拒絶を感じている

  やはり、ここはほんとうに別世界なのか

  生きるぼくらにとっての 別世界とは
  死に他ならない

  この水は 生きているのか
  それとも 死んでいるのか


――以下略


 この詩の奇妙さは、「水面に浮いている」とあるように、「ぼく」がいる場所が冒頭で明示されているにもかかわらず、読み進めていくうちに「ぼく」が「ここ」といっている場所が水面の上なのか下なのかわからなくなってくることにある。水面から顔をのぞかせて見える景色を「ぼく」は「別世界」と呼び、それは死であるとする。一方で、首より下を浸している水中は「生命の源」とされており、両者は背反関係に置かれている。だが、途中から「ぼく」はどちらが死であり生なのかわからなくなってくる。水中に生命の起源があるならばそこに立ち返ればよい。しかし魚と違い、わたしたちは水の中では生きられない。つまり水中に潜ったとしてもそこに待つのは死ということになる。いずれにしても死、なのだ。だから「ぼく」は行き場のなさを感じ、戸惑うのである。

 水面を漂う「ぼく」のように、チェンさんの言葉が紡ぎだすのは孤独だとか絶望だと結論づけるのは簡単だ。確かに作者はそうした感情を繊細な手つきで描き出し、モリーの死を悼む。その柔らかさ、優しさに心を打たれる読み手も多いだろう。だが、わたしはあえて作者の感傷につき合うのではなく、「ぼく」の戸惑いを抵抗に、孤独を非力ではなく強さへと読み替えたい。そして、「ここ」にも「むこう」にも属せず、冷たい湖水に体を浸し続ける「ぼく」がふたたび大地を踏む日が到来することを願う。

 なぜなら、いつだって問題にすべきは「ここ」であるはずだから。さらに言えば、そうであるにもかかわらず、なぜか人は自分が生きる世界を掴みそこねてしまうから。過日の選挙の際に某党が作成した政党CMを思い出してみてほしい。「取り戻す」を殺し文句として用いたのは党の力強さを誇示しようとしてのことだろうが、むしろ核の無さを露呈してしまった。それだけではない。「だれ」が「どこ」に取り戻そうとしているのか、主体のあまりの正体不明さにぞっとする。いつまでも自分たちが暮らす「ここ」は仮であり、理想郷はどこか別にあるとする見方が主語を隠れさせるのである。そしてそれは日本が築いてきた文化、歴史の総体であることは、幾人もの知識人が指摘してきたことでもある。「むこう」を思う気持が強くなると、理想の「むこう」に合わせて「ここ」をつくろうとする文化が生まれ、それに伴って「むこう」が本物であり、「ここ」は仮のものであるとする見方を育んでいく。その結果、日本はいまだに自分たちが暮らす現実世界は仮であり、「ここ」ではない場所、たとえばアメリカのような「むこう」に本物を求めてしまうのである。『カフェデリコ・カフェリーニ』に登場する「ぼく」はというと、「ここ」とも「むこう」とも戯れることができず、戸惑う。その戸惑いを抵抗に読み替えたいのは、一見孤独に映るその姿がこうした情勢を含め、現実から目を背けてしまう風潮に待ったを掛けているように思えたからだ。本書は一匹の犬の死を詩で飾る。だが、そこには悲しみを超えた力が宿っているのである。
      
☆.JPG
本書収録の「歌舞伎町の幽霊」より
Photo:古川 章


【無断掲載・転載はお断り致します。】

   
   
梅山いつき(うめやま・いつき)
プロフィール:
日本学術振興会特別研究員PD。
1981年新潟県生まれ。東京学芸大学卒業。
早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。
2008年から2011年まで早稲田大学坪内博士記念演劇博物館の助手をつとめ、
太田省吾展、第三エロチカ展等、現代演劇に関する企画展を手がけた。
アングラ演劇のポスター・機関紙誌をめぐる研究や、
野外演劇集団にスポットを当てたフィールドワークを展開している。
研究活動以外にも雑誌『シアターアーツ』の編集部員として演劇評論を執筆する他、
水族館劇場の制作もつとめている。
主な著書に『アングラ演劇論』(作品社)、『60年代演劇再考』(共編著、水声社)がある。
   
   
   
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posted by ジャンク派 at 14:09 | Comment(0) | 【ブックレビュー】
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