2011年05月14日

【本】 植物化の蔓延する時代に -「デンドロカカリヤ」安部公房

デンドロカカリヤ.jpg
  
  
安部公房の「デンドロカカリヤ」が発表されたのは
1949年だから、もう60年以上も前のことだ。

この小説を書いたとき、安部公房は25歳の若者だった。

数十年前の若者が書いた小説は、
今現在も、今現在の若者に読まれるにふさわしく、
それどころか時代が進むにつれ、ますます生々しくなっているようでもある。

「デンドロカカリヤ」の粗筋を本文から引こう。

「……つまり、コモン君がデンドロカカリヤになって、
 非情な植物学者に採集され、植物園の標本になってしまったという、
 奇妙な、しかし場合によっては決して人事ではすまされぬ、
 そんな話なんだからね」。

デンドロカカリヤというのは植物の名前だ。
調べたところ小笠原諸島に固有の、キク科の絶滅危惧種だそうだが、
それは小説の内容には関係ない。

音の面白さと、珍しさと、
それほど特徴もない植物だということが都合がよかったのだろう。

ともかく、主人公のコモン君は、話の終わりにこの植物に変身してしまう。

彼の名前はもちろん英語のcommonからだろう。
誰でも有り得るが特定の誰でもない人物だ。

コモン君は、ふとしたきっかけから”病気”にかかる。
きっかけというのは、路端の石を蹴とばしたことだ。

「何故蹴ってみようなどという気になったのだろう?
 ふと意識すると、その一見あたりまえなことが、
 如何にも奇妙に思われはじめた」。

これが病気の始まりだ。

コモン君は自分の行為を疑った。

そのときから、コモン君の植物化という病が始まる。
コモン君は自分の足が植物化しているのを目の当たりにする。
己の意識の壁が、自分の外に、空を覆うように巨大に現実に存在しているのを見る。

そしてコモン君の「顔を境界面にして内と外がひっくりかえ」ってしまう。
コモン君は慌てて顔を表向きに直して何事もなかったふりをする。

小説のナレーターは、そんなのはごく当たり前のことであるように話している。

実際、現代人にとっては当たり前の出来事なのだ。
人間は自分自身の中に「違い」を内包している。
思考、肉体、本能、社会性、本音に建前。
それぞれはそれぞれに違う。

自然に生きている限りは何の疑いもなかった「自分」が、
よく見て、よく考えるほどに分裂する。

すっかり正体がわからなくなってしまうのである。

現代の、特に若者には暇と余裕がある者が多いものだから、
「自分とはいったい何か」と、
じっくりじっくり観察しては自分を分裂させてしまう。

“俺は俺だがその俺を俺と意識している俺というものがあり
 そのまた俺を観察している俺というものがあり……”
 といった具合に。

こんな状態に陥った人間は、実世界で動くことなどできない。

朦朧と自分を見詰めているっきりなのだから、
足はその場で止まってしまって動けない。

植物化だ。

意識は俺と俺と俺と……を見詰めているのだから、
顔は外側の社会ではなく、内側を向いたきりになっている。

心の奥へ奥へと降りていって、
気がつけば、周りには巨大な意識の壁がそそりたっている。

“自分自身が何から構築されているか疑う”
という習慣を身に着けてしまった現代人にとって、
植物化は、確かに当たり前のことなのだ。

本文では
「ぼくの考えでは、これはもう病気というより、
 一つの世界、とくにぼくらの世紀のね」
と言っている。

この文が書かれたのは20世紀だが、
この病は21世紀にも、さらに蔓延しつつある。

コモン君は、植物への変形はゼウス一族の仕業に違いないと考える。
ゼウス一族は、古い神々だ。

神々によって植物と成された人間の神話を読み、
コモン君は悲痛な叫びをあげる。少し長いが引用する。

「結局、植物への変形は、
 不幸を取除いてもらったばっかりに幸福をも奪われることであり、
 罪から解放されたかわりに、罰そのものの中に投込まれることなんだ。
 これは人間の法律じゃない、ゼウスの奴隷たちの法律だ。
 新しい、もっと激しいプロメテウスの火がほしい!」。

この激しい一文を自己流に読み解けば、
ゼウス一族とは、尾崎豊的な文脈での「大人」のことだ。

つまり古くからしぶとく生き続けており、
俗っぽく、富を独占し、独善的で変化を好まず、
新しい発想を規則で縛りつける圧制者たちだ。

彼らはコモン君=若者たちが悩まなくても、苦しまなくても、
外の世界を見なくてもいいような、
ただ自分の内面を見ていても生きていけるような安楽な社会を作った。

植物化している者たちは自分で考えることも動くこともないのだから、
非常に管理しやすい。

しかしそんな生き方に、何の幸福があるのかとコモン君は叫んだのだ。

植物学者が、コモン君に植物化して植物園に入るように薦めて言う。
「十分な設備がととのえてありますとも。
 まあ極楽ですな。それに、政府から保障されています。
 どんな危害をこうむることもありません」。

自分たちに依存し、そこで世話をされ、
考えることも行動することもなく生きろと言っているのだ。

コモン君は当然怒る。
「植物の心臓?それは地球だ。
 植物は心臓のための犠牲だ!」と叫ぶ。

植物化した人間はもはや一人の人間ではなく、
社会の肥やしでしかなくなるのだと翻訳できるだろう。

コモン君は、ナイフを持って戦うことを決意する。
「温室の中に閉込められている仲間を救ってやろう」。

これはもう、革命を起こそうとする若者の姿そのものである。

しかし悲しいかな、それは非常にたやすく敗れてしまう。

ナレーターは言う。
「ぼくらみんなして手をつながなければ、火は守れないんだよ」。

一人一人が社会によって管理されようとしていることを自覚し、
協力し合わなくては人間らしい生き方は失われてしまうのだという、
これはこの奇妙な小説の終わりにきて唐突に感じられるほど優しく、
若々しい言葉だ。

そう言えばこれを書いたのは、25歳の若者なのだった。

さて、現代においては植物化の病は一層蔓延している。
誰もが自分とは何かと疑っている。

ひきこもりやニートなどは、あまりにわかりやすい植物化だ。

パソコンや、ゲームや、テレビや漫画を鏡として、
延々と自分だけを見つめ続ける。

今では管理され、平穏に暮らしたいと望む者の方が多く、
植物園が溢れて運営が危うくなりつつあるほどだ。

ただし幸い、
自分の意思を持って生きたいと主張するコモン君のような人間も、
未だ絶滅してはいない。
   
   
   
   
『水中都市・デンドロカカリヤ 』
安部公房 著(新潮文庫)
  
  
  
長谷川 菜菜 [PROFILE]
  

posted by ジャンク派 at 00:01 | Comment(82) | 【ブックレビュー】